さて、次のおうちへ
あれがここにあれば
これがあそこにあれば
あそこにあれがなければ
あそこにあれがあれば
そんなふうに 思ってしまう
それはなにか悪いことではないのに
足るを知る みたいな
今を生きる みたいな
これがいちばん みたいな
そういうつもりで10年過ごしてきたつもりで
そうしか生きれないし
きっとそれが大切なことのように感じていたけれど
振り返ってみるといつだって
「もっとこうならいいのに」という思いがありました
いつもいつも
小さなころから無い物ねだりばかり
それはより良くしたいという思い、といえば聞こえはいい
でも相反するように
心のそこはいつも「そのままのそれでいい」と思っている
これは怠惰かなと思ったりもする
いつだってすべては変化し続けていて
わたしたちはそれに反応し続けている
しかし人間に備わる恒常性が「それでいい」と安定をもたらしてくれる
わたしたちはどこを見ればいいかわかっているのです
先日は久しぶりに好みの木漏れ日に出会えました
帯広にある キッチンきたはら というレストランへ行くと
懐かしい木漏れ日がきらきらと揺れて
「この席へどうぞ」と誘導してくれました
浦和に住んでいた時の木漏れ日と同じ感覚
ゆらゆら揺れる光と陰を浴びて
その中にしばらく浸り揺れました
あの家の築年数と同じだと後でわかり
きっと木を植えたのも同じころだと勝手に思い
木が呼んでくれたとうれしくなりました
最近はとても木陰を恋しく思っていたからです
浦和に住んでいたときよく
「この窓の外には家がないといいな」と言っていました
浦和駅から徒歩7分くらいの住宅地に そんなところはないですが
たくさんの人が住む土地で
そんなことをよく話しながら空の広い競馬場まで散歩に出かけました
とにかく風が通り明るくひらけた景色を求めていました
長野に縁ができ
物件を探しに行った2回目に そんな家に出会いました
窓の外に家はなく 畑があり
それまであった大きな木も切り倒されていました
標高の高いその土地は谷に集落をつくっていて
居間から望む外は 少し向こうに山があり
そこから遅めの日の出も月の出も拝み
自然に追われながら 田畑をまんなかに暮らし
その住まいから見える小さな山の先を見たくていつも散歩に出かけていました
3年も住むと
2階から見える蓼科山がとても好きになりました
「いつもこうして遠くの山が拝めたらいいなぁ」
「目の前の小さな山もなくて抜けた感じがいいな」と話しました
「どのくらい抜けた感じ?」
「うーん、あの辺まで!」
「えー?どの辺??ほんとに?」
北の地へ住まいを探しに来て
この土地だったらもっと広いところにも出会えそうなのに
あの辺、と言ってた広さに林があって
長野の家よりすーーーっと抜けていて
うれしい日高山脈が見える
その上 今度は日の入りと月の入りが拝めるアパートに出会いました
正観くんが言う「抜けている」とは
– もう少し遠くを見たい –
という感覚を求めているようでした
それはわたしも同じでした
わたしたちは半年 遠くの見えるアパートに住み内側を見続けました
すると いままで本の挿絵だけを集めたまま散らばっているような
ヒントだけがあるような状態で10年を過ごしてきましたとわかりました
自分の軸に立ち 息を吸って吐くとき
真正面に見える景色があり
それはふたり同じものでした
これまで集めた挿絵の意味がつながってきました
長芋の収穫を手伝った農家さんと話をしていたある日 空家があるとのことで
わたしたちは神社のすぐ近くの家を借りることになりました
とても暮らしやすいこの家では家族が温かく安心して生活しています
友人たちが遊びにきてくれることがあれば
これからの景色のことをたくさん語り合いたいです
新しい住所は
北海道河西郡中札内村西二条南3−19です
ぜひいらしてくださいな